弘安7年(1284)、宇治橋の架け替えに際し叡尊は、橋の流失は魚霊の祟りであると考え、宇治川の殺生禁断令の発布を朝廷に要請し、その後、網代などの漁法は禁じられたのでした。塔の下には漁具などを埋めて、弘安9年(1286)に、法要が営まれました。 基礎の表面にはその縁起を記した一千字をこえる銘文が刻まれています。 塔は、洪水のために倒壊と修復・再興を繰り返してきました。しかし、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間、川中に埋没していました。 現在の姿となる再興は、多田清蓮率いる「福田海(ふくでんかい)」の人達によって川床の泥砂に埋もれた巨石の所在確認を第一歩に明治40年(1907年)より発掘に着手、同年11月から工事が始まりました。 | |
翌年の4月から行われた石積み工事の際、福田海の女性信者より寄進された髪の毛を編んで綱として、石を引っぱり積み上げました。(東本願寺においても、御影堂建造の際に女性信徒の髪の毛の綱が使用されました。その綱は現在、堂内に展示されています。) そして、同年8月21日、遂に発見できなかった九重目の笠石と頂の九輪石を補って優美な姿が再現されました。 創建当時のものではないかも知れませんが、塔の最上部の九輪石は、今も興聖寺の庭園に見ることができます。 なお、伏見区の藤森神社の境内の手水鉢の台石は、見つからなかった塔芯が流用されたものといわれます。さらに、一説には、それは石川五右衛門が盗み去ったのだという説もあるようです。 「浮島」の名は、塔のある中州が洪水に際しても水中に埋もれないことに因み、『都名所図絵』にも「浮舟ノ島」と称されています。現在は「十三重石塔」の島として、「塔の島」と呼ばれて親しまれています。 | |